金田一京助 |
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2008-10-10 Fri 23:28
金田一 京助(きんだいち きょうすけ、1882年(明治15年)5月5日 - 1971年(昭和46年)11月14日)は、アイヌ語研究で知られる日本の言語学者、民俗学者。國學院大學教授を経て東京帝国大学教授、國學院大學名誉教授。日本学士院会員。東京帝国大学より文学博士。文化勲章受章。従三位勲一等。盛岡市名誉市民。岩手県盛岡市四ツ家町(現本町通二丁目)出身。1954年に文化勲章を受章。アイヌ研究の第一人者として知られる。石川啄木の親友であったことでも知られる。
経歴 * 1882年(明治15年) - 旅館主・金田一久米之助の長男として生まれる。 * 1888年(明治21年) - 盛岡第一尋常小学校(現・仁王小学校)入学 * 1892年(明治25年) - 盛岡高等小学校(現・下橋中学校)入学 * 1896年(明治29年) - 岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)入学 * 1901年(明治34年) - 第二高等学校(現・東北大学)入学 * 1907年(明治40年) - 東京帝国大学文科大学言語学科卒業 * 1922年(大正11年) - 國學院大學教授、のち名誉教授 * 1928年(昭和3年) - 東京帝国大学助教授 * 1932年(昭和7年) - ユーカラの研究で帝国学士院賞受賞 * 1935年(昭和10年) - 文学博士号取得 * 1941年(昭和16年) - 東京帝国大学教授 * 1948年(昭和23年) - 日本学士院会員 * 1954年(昭和29年) - 文化勲章受章 * 1959年(昭和34年) - 盛岡市名誉市民第一号の称号を贈られる。2007年時点で唯一の盛岡市名誉市民。 * 1971年(昭和46年) - 89歳にて死去。叙従三位勲一等授瑞宝章(戦前に受けていた従四位勲四等からの没時追陞)。 逸話 親友・石川啄木 (右) と 親友・石川啄木 (右) と * 盛岡中学時代の金田一は小柄な少年で、柔道の練習でも昼間の乱取りを避けてもっぱら朝稽古に姿を出すようにしていた。同じように朝稽古に来ていたのが2年上級の米内光政で、2人で柔道の稽古をするようになった。大柄な米内が小柄な金田一のかけた技に大きな音を立てて倒れて稽古を繰り返したことから、実力差がわかっていた金田一は恐縮してばつの悪い思いをしたという。 * 歌人・石川啄木は、盛岡中学時代の後輩で親友。金をよく貸したことでも有名。 * 金田一がアイヌ語の研究を始めた頃は、言語学の聞き取り調査では最も重要な言葉の一つである「これは何?」ですら何と言うのかよく分らない有様だった。そこで金田一は思案の末、訳の分からない絵を描いた紙をアイヌ人に見せ、その反応から「何?」という言葉を聞き出すことに成功。ここから膨大なアイヌ語の単語を一つひとつ聞き取り調査で記録するという地道な事業がスタートした。 * 金田一畢生の大著『ユーカラの研究:アイヌ叙事詩』I・II は、最初、欧文の博士論文として大学へ提出されたが、審査の適任者を欠くまま大学附属図書館に置かれているうち、関東大震災で焼失する。これを惜しんだ柳田國男は、懇意にしていた岡書院店主岡茂雄に助力を依頼。岡の励ましと協力により、金田一が邦文で新たに書き直した。出版の際には、岡の斡旋により、東洋文庫や渋沢敬三からの経済的助成が金田一に贈られたりもした。この間の正確な事情は、金田一の自伝『私の歩いてきた道』ではなく、岡が晩年に記した回顧録『本屋風情』所収の「『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』生誕実録」に詳しい。岡によれば、金田一が自伝の中で記した『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』上梓に至る間の記述は、ほとんど事実に異なるという[1]。 * 金田一の名を広く一般家庭にまで広めたのが『明解国語辞典』(三省堂書店、1943年) だが、「金田一京助 編」と表紙に書かれたこの辞書に金田一本人はほとんど関与していない。同辞書は当時まだ東京帝国大学大学院に在学中の見坊豪紀がほぼ独力で編纂したものである。しかし院生の名で辞書を出すわけにもゆかず、三省堂に見坊を紹介してくれた金田一の名を借りることにした。京助の長男でやはり言語学者の金田一春彦によると、「金田一京助 編」と銘打った辞書は多いが、「お人好しゆえあちこちに名前を貸しただけ」のことで、実際には辞書は一冊も手がけていないという。 * 横溝正史の推理小説に登場する名探偵・金田一耕助の名は、金田一京助の名がもとになっている。横溝が『本陣殺人事件』を執筆していたころ、同作に登場する新しい探偵の名には当初「菊田一◯◯」という名を考えていた[2]が、ちょうどそのころ横溝が住んでいた東京・吉祥寺の隣組に「金田一安三」という者がおり、この「金田一 (きんだいち)」が「菊田一 (きくたいち)」とよく似ていたのでこれを頂戴することにしたのである。しかも安三が著名な言語学者・京助の実弟だということを知ると、「京助 (きょうすけ)」の方も拝借してこれを「耕助 (こうすけ)」とした。金田一春彦は、金田一姓を有名にしてくれた横溝に「千金を積んでもいい」と感謝していた[3]。 * 昭和天皇にアイヌ語についてご進講することとなり、持ち時間は15分と決まっていたにも関わらず2時間近く話し続けてしまい、金田一は陛下の前で大恥をかいたと落胆してしまう。しかしながら、天皇は後日催された茶会の席で、「この間の話は面白かったよ」と労われ、金田一は「恐れ入りました」と申し上げた後言葉が続かず、涙が止まらなくなったという。なお、金田一の逝去に際し天皇より祭祀料が下賜されている。 註 1. ^ 岡茂雄「『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』生誕実録」『本屋風情』平凡社、1974年、109〜119頁。 2. ^ この探偵の風体を劇作家の菊田一夫をモデルにして描いていたたためだが、後になってやはり菊田に失礼かと取り止めている。 3. ^ 本来「金田一」というのは珍姓の部類に入る姓で、なかなか陽のあたる場所に出るようなものではないという。そのせいか金田一春彦が名前を読み間違えられることは毎度のことで、召集されてからは軍隊の上官から「名前が読めない」ことを理由に理不尽な嫌がらせを受けることも多かったという。その「金田一」が一人の私立探偵のおかげで誰でも知っているような普通の姓になるとたちどころに苦労もなくなったという。 著作 * 『アイヌ叙事詩ユーカラの研究』(全2巻)(1931年) * 『アイヌ叙事詩ユーカラ集』(全8巻) * 『国語音韻論』 * 『国語史 −系統編−』 * 『心の小径』(随筆) * 『北の人』(随筆) * 『私の歩いて来た道』(自伝)(1968年、講談社、講談社現代新書) 家族 * 静子: 妻(旧姓 林) o 春彦: 長男(言語学者) + 真澄: 孫(ロシア語学者) + 秀穂: 孫(言語学者) + 美奈子: 孫(ゴルフライター) |
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